みなさんこんにちは、岩下 幸圓(イワシタ コウエン)です。今回はびじゅチューン!『犬派はモノクロ 猫派はカラー』のモデル『群仙図屏風』を紹介したいと思います。
この作品は何が描かれているのか、作者は誰なのか、どんな意味が込められているのでしょうか。それらを含めて解説していきます。
それではよろしくお願いします。
『群仙図屏風』の概要

タイトル | 群仙図屏風(ぐんせんずびょうぶ) |
作者 | 曾我蕭白(そがしょうはく) |
制作年 | 1764年 |
材料/技法 | 六曲一双/墨・盛り上げ彩色 |
寸法 | 各172.0×378.0cm |
所蔵 | 文化庁 |
二つの屏風で一つの作品を表現している巨大な屏風です。(単純に計算すると横幅が7メートル以上あります。)
それぞれの屏風を見ながら作品のモチーフを解明していきましょう。
作品のモチーフ・特徴

作品のモチーフは全て吉祥(きっしょう・めでたいこと)を表したものが画題となっています。
八人の仙人に龍(出世)、鶴、鳳凰(長寿)、鯉(龍になる一歩前)などが描かれており非常にめでたい内容になっています。
京都の京極家に代々伝わっていたとされるもので、誰かの誕生や長寿の祝いのために描かれたと推定されています。
右隻(うせき)

右隻には右端から順に
・巻物を袋に入れている麻衣子(または戦国時代の名医・扁鵲(へんじゃく)か三国時代の医術に優れた董奉(とうほう))

・鳳凰の後ろで簫(笙・楽器のこと)を持っている簫史(しょうし)または簫簒(しょうさん)


雅楽の管楽器。木製椀型の頭の周縁に、長短の竹管を立てたもの。
岩波書店『広辞苑 第六版』「笙」より引用
・杖を持っている李鉄拐(りてっかい)

・龍に乗る呂洞賓(りょどうひん)または陳楠(ちんなん)

左隻(させき)

左隻には右端から順に
・子供を抱いて鶴の前に立って歩いている林和靖(りんなせい)

・鯉を手に持っている左茲(さじ)

・ガマが体にまとわりついている劉海蟾(りゅうかいせん)

・桃を前に寝転んで休んでいる西王母(せいおうぼ)

がいます。西王母は長寿の象徴であり、桃も邪気を払う聖なる木とされており、これもまた吉祥の象徴になります。
西王母に前にいる動物は、他のサイトでは特定されていませんが、うろこに覆われた体、たくましい四肢、鋭い尻尾からセンザンコウかと推定されます。

センザンコウは鱗が伝統的に中国の漢方にも使用されており、難病に効能があるとされており、無病息災の意味が込められているのではないかと(個人的に)考えます。
奇想の画家「曽我蕭白」
作風
江戸時代中期に活躍した曾我蕭白(そがしょうはく)の画風は「奇想」と呼ばれました。
作品の細部はこと細かく正確に描写され、一方で大胆な構図や強烈な色彩により、強烈な不安定さを生み出し、江戸時代の時から「異端」「狂気」とも評されました。(中には下品や邪道とも言われていたようです。)
しかし、彼の作品は様々な場所に残っているので当時から好きになってくれるコアなファンが一定数いたようです。
そんな彼の生涯は流浪の人生であったと言えます。

生涯
彼は、1730年に「丹波屋」と言う商家の子として京都に生まれます。
しかし彼の兄、父、母が次々に倒れ、家も家業もなくなってしまい、天涯孤独になってしまいました。
その後の彼の経歴は作品が物語っています。
29歳~30歳には黒田村の浄光寺に住んでいました。お寺の内部の左右の壁面に「十六羅漢」の図、欄間には「葡萄」の図を描いています。(現存はしていません。)

35歳の時、『群仙図』や『旧永島家襖絵』などの代表作を描きました。

その他にも三重県にある朝田寺(ちょうでんじ)の本堂壁面に絵を描くなどしています。

その後も流浪(るろう)を繰り返しましたが、43歳のころから京都に定住しました。
彼が44歳の時に息子が死亡、その4年後、死去。48年の生涯に幕を下ろしました。
まとめ
『群仙図屏風』は作者である曽我蕭白の代表作であり、また彼の歴史を語っているように見えます。
「奇想」、「狂気」、「異端」の画家として評されますが、それ以上に、彼の圧倒的な画力、熱量が人々を魅了するのではないでしょうか。
最後までご覧いただきありがとうございました。
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