ジャック=ルイ・ダヴィットという画家。あの有名な絵画を描いた巨匠を解説・紹介します。

今回はジャック=ルイ・ダヴィットについて紹介・解説していこうと思います。

ダヴィットと言えば、あの有名な絵画を描いた画家です。

そうの作品ですよね。

ナポレオンと仲よくしていた画家なの?

という感想を抱くかと思います。

そんなダヴィットですが、実はかなり波乱万丈な人生を歩んでいます。

今回はそんな画家ダヴィットの生涯や有名な作品、彼のエピソードまで解説していこうと思います。

それではよろしくお願いします。

ジャック=ルイ・ダヴィットってどんな画家?

名前ジャック=ルイ・ダヴィット
誕生1748年8月30日
死亡1825年12月29日
代表作『サン=ベルナール峠を越えるボナパルト』 『マラーの死』 『レカミエ夫人の肖像』ほか
活躍した時代・運動新古典主義

ジャック=ルイ・ダヴィット(Jacques-Louis David)は

18世紀後半から19世紀前半のフランスで活躍した

フランスのパリ出身の画家です。

代表作には『サン=ベルナール峠を越えるボナパルト』、 『マラーの死』、

『レカミエ夫人の肖像』などがあります。

また、ダヴィットは新古典主義の画家と言われています。。

新古典主義ってなに?

新古典主義(ネオクラシズム)とは簡単に言ってしまえば

古代ギリシャ・ローマ芸術・文化を復興しようという運動です。

新古典主義の特徴として、ギリシャ、ローマなどの古典芸術を見本にし、

調和や統一性を重視した荘厳(そうごん:重々しさがあって立派)

な形式美が特徴的です。

新古典主義の始まる前は、ロココ芸術やバロック芸術などの芸術が流行っていました。

参考のため、バロック芸術と、ロココ芸術について少しまとめておきます。

【バロック芸術】

バロック芸術は16世紀末から17世紀初頭に流行った芸術運動。

大胆な明暗対比やダイナミックな動き、凝った装飾などが特徴的。

後年その大げさなまでの表現を

ポルトガル語のbarroco「歪んだ」という意味が

批評家らによって分類されました。

【ロココ芸術】

ロココ芸術はバロックの後に続くように18世紀に流行った芸術運動。

ロココはロカイユ(rocaille)に由来する言葉であり、岩を意味するが、

転じて貝殻を装飾した岩組のことをロカイユ装飾と言うようになった(という説がある)。

貝殻の曲線や植物のような有機的な曲線を多用した作品、装飾が特徴的。

かたくまとめましたが、要するに

とにかく豪華絢爛でハデで装飾がすごい芸術活動が流行っていたわけですね。

しかし、その芸術に反発したのが、新古典主義の芸術家たちでした。

そのようなゴテゴテハデハデなものは表面的で装飾的だ!本当の芸術じゃない!

真の芸術は古代のギリシャやローマの芸術だ!

古典を復活させるんだ!

という主張から、新古典主義が誕生しました。

バロック、ロココへの反抗として新古典主義が誕生したと言えますね。

この新古典主義(新古典派)にはダヴィットに加えて、

ドミニク・アングルやジェラール、グロなどの画家がこの運動・時代に分類されます。

画家ダヴィットの生涯

誕生

ダヴィットは1748年8月30日にフランスのパリで誕生します。

そんな彼が9歳のとき、ある事件が起きます。

父親がある人に決闘を申し込まれて、

父親が決闘で殺害されています。

最初からハードな展開ですね。

その後、お金持ちの叔父(おじ)に育てれられます。

そのころダヴィットは絵に興味を持ち始めました。

そこで叔父はロココ芸術絵画の巨匠フランソワ・ブーシュのもとへ送りますが、

ブーシュは当時弟子はとっておらず、

代わりに知人のジョゼフ=マリー・ヴィアンという画家に指導をしてもらいます。

このジョゼフ=マリー・ヴィアンというのは新古典主義の画家でした。

これが彼の絵画人生の進む道を大きく左右する出来事となります。

修行の時代

その後、ヴィアンのアトリエでの10年の修業期間を経て、

当時の若手画家の登竜門であるローマ賞受賞を目指し、

作品を展覧会へ出品しますが、

三年連続の落選となります。

このとき、審査の結果を不服に思い、

教師にハンガーストライキ(抗議のために絶食をする行為)を行います。

まあ要するに、拗ねて先生に抗議したわけですね。

拗ねたダヴィットは2日半、先生になだめられて、抗議をやめます。

そんなこともありましたが、

1774年、ヴィット26歳ごろ、

ついにローマ賞を受賞します。

その時描かれた『アンティオコスとストラトニケ』

はエコール・デ・ボザール(パリ高等美術学校)に収蔵されています。

ローマ賞を受賞した『アンティオコスとストラトニケ』

イタリアの時代

ダヴィットは見事ローマ賞を獲得しましたので、

受賞の翌年1775年にはその特典として

イタリア(ローマ)へ留学することとなります。

ちょうどその時師匠であるヴィアンもイタリアにある

フランス・アカデミーの院長としてローマへ赴任したため、

師匠と揃ってローマ行きとなりました。

ダヴィットはイタリアで、プッサンやカラヴァッジョ

アンニーバレ・カラッチなど17世紀の巨匠の作品の研究に没頭します。

この巨匠たちの絵画研究によって

彼の画風はロココ調のものから、

次第に新古典主義のような

重厚な画風へと変わっていきます。

イタリア留学は1780年頃の約五年間続きました。

1784年にはこの新古典主義的な画風で描いた絵画作品

『ホラティウス兄弟の誓い』は

当時のフランスの国王ルイ16世の注文によって描かれました。

この作品はサロン(日本でいう日展のようなもの)に出品された際

当時の画家に

「ダヴィットこそ今年のサロンの真の勝利者である」

と絶賛されました。

ダヴィットとロベスピエール

1789年、ダヴィットはフランスの政治に関与していくこととなります。

この時ダヴィットは絵画作品『球戯場の誓い』を描きます。

モチーフは下の政治エピソードがあります。

ダヴィット作『球戯場の誓い』

球技場の誓い

バスティーユ監獄事件の前、聖職者、貴族、平民の三つの階級の代表者が
政治を議論するという議会(三部会)がありました。
しかし、三部会は平民階級を大きく失望させるものでした。
その後、平民階級の代表は6月17日に国民議会を開き、他の二つの身分にも合流するよう呼びかけます。
しかし、これは当時強硬な姿勢だと判断され、平民階級は議場から追い出されてしまいます。
6月20日には議場に隣接する球戯場で
「憲法改正までいかなる状況でも会議を解散せず、継続する」と誓います。
これが球戯場の誓いと言われるものになります。

また、その後、パリの民衆がバスティーユ監獄を襲撃した事件(バスティーユ監獄事件)にも参加・関与しました。

そしてその後のフランス革命にもダヴィットは関与します。

1792年には国民議会議員になります。

1793年にはフランス革命の指導者ジャンポール・マラーの死を描いた

『マラーの死』を描きます。

1793年『マラーの死』油彩、ベルギー王立美術館収蔵

この時のダヴィットはとにかくフランス革命に関する

絵画作品を描き、画家として、政治家として活躍しました。

1794年にはフランス革命で活躍した政治家ロベスピエールに

協力して、最高存在の祭典(宗教的な祭典)の演出を担当

一時期には国民公会議長を務めます。

1793年までには、芸術委員会のメンバーとして、多くの権力を獲得し

ダヴィットは事実上フランスの芸術の独裁者となりました。

また、王立アカデミーをすぐに廃止したりと

独裁的な判断をしています。

このことから「筆のロベスピエール」と言われていました。

ダヴィットが親しくしていたロベスピエールも政治的な反対派を

弾圧や処刑を行っていたため、このように言われていたわけですね。

しかし、最大の後ろ盾である政治家のロベスピエールが失脚すると

ダビットは投獄されます。

ダヴィットとナポレオン

1795年、ダヴィットは解放(恩赦)されると、

今までのエネルギーを若い画家を育てることに専念します。

その中には後の新古典主義の巨匠ドミニク・アングルもいました。

1799年にナポレオン・ボナパルトがクーデターを起こし、

第一執政(実質の最高権力者)にナポレオンが就任すると

ダヴィットにフランスの勝利を記念する絵を複数枚描くことを依頼します。

1800年には『レカミエ夫人像』を描いたが、未完成のまま終わってしまいます。

その後1804年にはナポレオンの首席画家として任命されています。

そして彼は最後の大仕事である『ナポレオン一世の載冠式と皇妃ジョゼフィーヌの載冠』を描きます。

この作品は1806年から1807年に描かれ、

そのサイズは縦6.1m、横9.3mの大作でした。

1808年には「帝国における騎士ダヴィット」という爵位を与えられます。

まさに、画家としての頂点を味わいます。

しかし、この流れは、覚えていますでしょうか。

ダヴィットが画家としての頂点に立つとどうなるかを。

1815年、ナポレオンが皇帝になったのち失脚してしまいます。

ダヴィットも同時に失脚してしまいます。

1816年にはブリュッセルへ亡命。

1825年には77年の生涯をとじました。

ダヴィットの有名な作品

彼の作品の内有名な作品は『サン=ベルナール峠を越えるボナパルト』

『マラーの死』、『レカミエ夫人の肖像』が挙げられます。

サン=ベルナール峠を越えるボナパルト

サン=ベルナール峠を越えるボナパルトはダヴィットの代表作の1つと言えます。

ナポレオンと言えばこの肖像画ですね。

グラン・サン・ベルナール峠を経由して、アルプスを越えようとしている姿を

理想化して描いています。

荒馬を冷静に乗りこなすナポレオンの姿が勇ましいですね。

ちなみにこれは5枚同じようなものが描かれています。

うねるような馬のたてがみ、筋肉の隆起、

ナポレオンの着用している衣服の細かな表現もされています。

マラーの死

ダヴィットがフランス革命の英雄マラーを描いた作品『マラーの死』です。

マラーは胸を刺され暗殺されたことで有名です。

この作品には胸を刺されて出血したマラーの姿が描かれています。

マラーはダヴィットも所属していた山岳派(ジャコパン派)に所属しており、

仲間であったとされています。

マラーはこの当時、皮膚病を患っていましたが、

作品にはその皮膚病は描かれておらず、理想化された肉体が描かれています。

現在はベルギー王立美術館に収蔵されています。

レカミエ夫人の肖像

『レカミエ夫人の肖像』はダヴィット未完成の作品と言われています。

このレカミエ夫人はナポレオンに熱烈なアプローチを受け

ナポレオンは愛人になる様に強要しましたが

断ったというかなり芯の強い女性です。

未完成ですが、ダヴィットらしい

きっちり描かれた人肌や服のしわなどがみてとれます。

この作品は未完成のままとなっています。

また、アングル作『グランド・オダリスク』では

アングルがその元ネタを参照したとも言われています。

まとめ

ダヴィットはフランスの新古典主義の画家で、

18世紀後半から19世紀にかけて活躍した画家です。

幼少期の父親の死や、マリー・ヴィアンという師匠との出会い、

フランス革命後のロベスピエールとの政治的親交と失脚、

そして投獄。

その後に続くナポレオンとの親交と亡命など怒濤の人生を歩みます。

ダヴィットは時代に翻弄され頂点と底辺を味わった波乱万丈な画家だと言えるでしょう。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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