油絵で有名な画家ラファエロ・サンティの生涯と代表作の解説と紹介

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岩下幸円(イワシタコウエン)
愛知県在住の芸術家。 独学で絵を学びたい人に役に立つ情報をシェアしています。 色彩検定2級を取得。 小学校教諭一種免許を取得。 寝ている生物(特に猫)が好きです。

ラファエロと言えばルネサンスの三大巨匠として有名ですね。

女性人気も高くて、イケメンと言われています。

そんな彼ですが、作品などについては有名ですが、

彼の生涯についてあまり知られていません。

そこで今回は、ラファエル・サンティの生涯と作品、

そしてイタリア・ルネサンス期についても紹介します。

それではよろしくお願いいたします。

ラファエロ・サンティ

名前ラファエロ・サンティ
生誕1483年
死亡1520年4月6日
代表作『アテナイの学堂』
『システィーナの聖母』
活躍した時代盛期ルネサンス

ラファエロ・サンティは、優美な絵画や素描で有名な

イタリア・ルネサンス期の芸術家です。

歴史上最も偉大な芸術家の一人と言われています。

レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロとならぶ

イタリア盛期ルネサンスの三大巨匠と言われています。

ラファエル・サンティの生涯

誕生

ラファエル・サンティは、

1483年、イタリア・マルケ州の都市ウルビーノ公国に生まれました。

ウルビーノ公爵の宮廷画家ジョヴァンニ・サンティの息子とされています。

弟子の時代

1491年ラファエロが8歳の時に母親が死亡。

父親は再婚しますが、その三年後の1494年には父親が相次いで死亡します。

11歳で孤児になったラファエロは父親の伯父(おじ)である

聖職者バルトロメオに育てられます。

1500年ごろには画家ペルジーノの工房に弟子入りしています。

ペルジーノの肖像画

その時からすでにラファエロの画家の才能としてうかがえるのが

この10代で描いたと言われる素描です。

1501年には弟子の期間を終えて聖ルカ組合の「マスター」として登録され

晴れて一人前の芸術家としてデビューします。

放浪の20代

その後、何年かは各地の教会で『モンドの磔刑』や『聖母載冠子式の祭壇画』などの祭壇画を描きました。

『モンドの磔刑』1502年~1503年、ナショナル・ギャラリー所蔵
『聖母載冠の祭壇画』1502年~1504年、ヴァチカン美術館所蔵

そんなラファエロですが、ここからは放浪の人生を送ります。

まず北イタリアの様々な都市で絵を手がけ

1504年ごろからフィレンツェに長期で滞在しています。

その時にレオナルド・ダ・ヴィンチの作品を見て、大きな影響を受けます。

フィレンツェ滞在前は平穏なものが多かったですが、

レオナルドなどの影響により、人物の動きがより生き生きとなっていきます。

『ベルヴェデーレの聖母』1506年頃

『ベルヴェデーレの聖母』ではレオナルドの発明した三角形の構図で描かれた聖母を描きます。

1507年作『キリストの埋葬』では様々な人物のポーズを描いた作品もあり

ラファエロの個性が垣間見えます。

1507年作『キリストの埋葬』

1508年の終わりごろにはラファエロはローマへと行きます。

その当時活躍していた芸術家はレオナルドの他にも、

ミケランジェロもいました。

レオナルドはラファエロの30歳年上、ミケランジェロは7歳年上でした。

ミケランジェロは気難しい性格なのか

レオナルドも嫌いで、後にローマで活躍したラファエロも自分に対して

何かよからぬ企てをしている若造として嫌っていました。

後で紹介する彼の壁画作品について、ミケランジェロは

ラファエロが自分のマネをしているという不満から

「彼(ラファエロ)の芸術に関する知見は、すべて私(ミケランジェロ)から得たものだ」

という書簡も残しています。

若干被害妄想が強い感じがします。

ラファエロの大仕事

ラファエルはローマに移動したのは、

ローマ教皇ユリウス2世の招待によるものでした。

ラファエロはすぐさまローマのヴァチカンへと向かい、

ヴァチカン宮殿のフレスコ画の製作を行います。

ヴァチカン宮殿の四部屋のうち、

まず初めに取り組んだのは「署名の間」(通称:ラファエロの間)です。

その部屋の壁画には『アテナイの学堂』、『パルナッスス山』、『聖体の論議』などが描かれました。

「著名の間」、左側に『パルナッスス山』、右側の壁は『アテナイの学堂』が描かれている。

この作品は当時のローマの芸術家たちに大きな衝撃を与え、

ラファエロの最高傑作として今でも語り継がれています。

残りの三部屋にはすでに

ペルジーノやシニョレッリらによる

フレスコ画が描かれていましたが、ユリウス2世の命令により

その上にラファエロが描くように命じられます。

(わざわざラファエロにこの絵を塗りつぶされた理由はユリウス2世

の前の教皇の影響を完全に取り去り、自分の時代であると表明するためだと考えられます。)

ラファエロの重要なパトロンであるユリウス2世が

ラファエロの間製作途中で死去(1513年)しましたが、

次の代のローマ教皇レオ10世とも良好な関係が続き

引き続き壁画制作を行いました。

2つ、3つ、4つ目と部屋の壁画を進めるうちにラファエロが描く

割合はどんどんと減っていき

最後の部屋である『ボルゴの火山の間』では、

デザインもラファエロはほとんど関係せず

大部分がラファエロの率いた工房の弟子の画家たちが手掛けていました。

ラファエロの最晩年には

建築家ブラマンテが設計した宮殿のような豪華な邸宅に水んでいました。

ラファエロは生涯婚約はしていないが

枢機卿の姪にあたるメディチ・ビッビエーナと婚約しています。

ただこの婚約はビッビエーナが押し切ったという風に言われており

ラファエロはあまり乗り気ではなかったとされています。

ラファエロは多くの女性と関係を持っていたとされており、

特にパン屋の娘、マルガリータ・ルティとは常に寄り添っていたと言われています。

絵画作品にマルガリータ・ルティがモデルだと考えられるものがあります。

『ラ・フォルナリーナ』1518~1519年、国立古典博物館

1520年、ラファエロ37歳の時、熱病に倒れます。

一時は回復し、口頭で遺言を残します。

残される愛人のために基金を設置して、使用人にその基金運用を委託すること。

工房の所蔵物をラファエロの弟子(ジュリオ・ロマーノとジャンフランチェスコ・ペンニ)に遺贈すること

などを言います。

そして、ラファエロが死亡すると、

遺言によりローマのパンテオン(神殿)に埋葬されました。

ラファエロの葬儀は多くの人が押し寄せる壮大なものだと言われています。

そしてその棺には追悼の詩が刻まれています。

著名なラファエロここに眠る。

生前には万物が凌駕されることを畏れ

死ぬ間際には万物がその死を恐れた。

ピエトロ・ベンボによる追悼詩

イタリア・ルネサンス期とは

イタリア・ルネサンス期は、1400年代半ばに始まり、

1700年代前半まで続いた文化運動です。

この時代は、絵画、彫刻、建築などの芸術的生産が盛んに行われていました。

この文化的覚醒のきっかけとなったのは、

イタリアの都市国家の冒険家や商人たちによる

古典ローマやギリシャの文化の再発見でした。

そのあまりにも優れた芸術作品から

「古代ローマとか古代ギリシャすごい!」

ということから、それをルネサンス(復興)しようということが

この時代に起こりました。

なので「復興」を意味する「ルネサンス」という名前になっています。

ラファエロ・サンティの作品

アテナイの学堂

アテナイの学堂はラファエロ・サンティを代表する作品で

最高傑作と呼ばれるものです。

アテナイの学堂には

古代ギリシャを代表する哲学者たちを描いており

プラトンやアリストテレスなどの有名な哲学者が描かれています。

倫理の教科書の表紙にも採用されていました。

システィーナの聖母

システィーナの聖母は1513年に描かれた作品です。

聖母マリアが幼児キリストを抱いたシーンを描いています。

構図がお手本ともいえるくらい素晴らしいです。

まとめ

ラファエル・サンティは、優美な絵画やデッサンで有名なイタリア・ルネサンス期の画家で

歴史上最も偉大な芸術家の一人とみなされています。

彼は、イタリア・ルネサンス期の盛期において、

15世紀の優美さと16世紀の技術的正確さを作品の一つ一つに融合させ

彼独自の画風となりました。

「ラファエロの間」の「アテネの学堂」などの大規模なフレスコ画は

彼の最高傑作とされています。

彼の作品の特徴は、優雅さ、正確さ、古典主義でありいまでも私たちに大きな影響を与えています。

そして何よりも、多くの人に愛され、尊敬され、死を惜しまれた彼は

一流の芸術家にふさわしい生涯を送りました。

今回は、ラファエロの生涯と作品についてご紹介しました。

最後までご覧いただきありがとうございます。

他にも芸術家を紹介しているので、そちらも是非ご覧ください。