こんにちは、岩下 幸圓(イワシタ コウエン)です。今回はびじゅチューン!の「風神雷神図屏風デート」の元ネタ「風神雷神図屏風」を紹介していきます。
この作品、実は同じ屏風が3つ、そして違う時代に作られました。
なぜそうなっているのか、そこをまじえながら紹介します。
それではよろしくお願いします。
動画はこちら→びじゅチューン!「風神雷神図屏風デート」
風神雷神図屏風
風神雷神図屏風は風袋を持ち嵐を起こす風神と、太鼓を持って雷を起こす雷神を描いた2曲1双屏風の作品です。
最も古い風神雷神図屏風は17世紀前半に描かれた俵屋宗達のものとされています。
俵屋宗達の『風神雷神図屏風』
俵屋宗達の作品は元ネタがないオリジナルの作品と言われています。しかし、インスピレーションを受けた作品があります。
この風神雷神は『北野天神縁起絵巻(弘安本)』の『清涼殿落雷』から転用されていると言われていますが、他にも三十三間堂にある木造の彫刻『風神・雷神』からも影響を受けていると言われています。
この作品の特徴として
- 風神の体色を緑に、雷神を白にしている独自性
- 風神雷神を画面ぎりぎりに配置する構図
- 中央にある金地の空間に奥行を思わせる
- たらし込みによる雲の表現
が挙げられます。特に重要なのはたらし込みの技法です。
この黒のたらし込みによって雲の柔らかい質感、浮遊感を表現しています。
また、画面からはみ出るほど大きく描いた風神雷神によって、画面全体に迫力があり、躍動感も見られます。
尾形光琳の『風神雷神図屏風』
尾形光琳は1711年ごろに俵屋宗達の『風神雷神図屏風』を模写する形で作品を描きました。
尾形光琳は、『燕子花図屏風』や『八橋蒔絵螺鈿硯箱』など数多くの傑作を生みだした芸術家です。
彼の作品が俵屋宗達と違う点として
- 風神雷神が画面に入りきるようになっている
- 風神雷神がお互いの眼を見つめあっている
- 屏風の大きさが宗達よりも大きい
- 細部の描写を修正
が挙げられます。宗達と比べると、風神雷神の大きさが小さく見えたり、風神雷神の太鼓の環がはみ出していたり、風袋が見切れるなど、はみ出しがありません。
このことにより宗達にあった躍動感は減ったものの、画面全体の調和性が高いため、落ち着いた画面になっています。
その後、尾形光琳作の『紅白梅図屏風』がその画面構成を引き継いでいます。
酒井抱一の『風神雷神図屏風』
酒井抱一の『風神雷神図屏風』は尾形光琳のものを模写していると言われています。しかし、不安定な構図に感じます。
尾形光琳と比べてみると
- 風神雷神の上下が揃っていない
- 色が多く、統一感がない
- 細部の形が崩れている
- 雲が薄く、今にも落ちそうな印象を受ける
などの要因が画面を不安定にされているのではないかと考えられます。
じゃあ、酒井抱一は絵が下手か、と言われるとそうではありません。
これは酒井抱一が下手というわけではなく、尾形光琳の作品をじっくりと見られなかったことが原因だと言われています。
尾形光琳の『風神雷神図屏風』は当時一橋家にある光琳のものがトレースできず、まともに研究できませんでした。そのため、構図が崩れてしまったのです。
さらに彼は、風神雷神図屏風とは違う最高傑作をあそこに描いているのです。
尾形光琳への返歌
酒井抱一は尾形光琳へリスペクトを込め『夏秋草図屏風』を描きました。
その作品は何と尾形光琳の『風神雷神図屏風』の裏に描いたのです。
風神のある屏風には強風にたなびく秋草を、雷神のある屏風には雷雨にさらされる夏の草が描かれました。
表と裏でそれぞれが呼応し、それぞれの良さを引き出した最高傑作と言えるでしょう。
まとめ
俵屋宗達をはじめとした三人の『風神雷神図屏風』いかがでしたでしょうか。彼らは、この作品を通して精神的なつながりと系譜を引き継ぐという覚悟も感じられます。
そして、それらを『紅白梅図屏風』や『夏秋草図屏風』で発展させていくというものにそれぞれの技量の高さがうかがえます。
最後まで読んでくださりありがとうございました。
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