びじゅチューン!『松林ズ』の元ネタ『松林図屏風』を解説

びじゅチューン!『松林図』モデル・元ネタの『松林図屛風』

『松林ズ』には何か物悲しい雰囲気が漂っています。

実はこれ、元ネタが関係しているんです。

みなさんこんにちは、岩下 幸圓(イワシタ コウエン)です。今回はびじゅチューン!『松林ズ』のモデル『松林図屏風』を紹介したいと思います。

松林図屏風は誰が書いたの?技法は何?などを紹介していきます。

それではよろしくお願いします。

『松林図屏風』の概要

タイトル松林図屏風
(しょうりんずびょうぶ)
作者長谷川 等伯
(はせがわ とうはく)
制作年1593-1595年(推定)
材料/技法六曲一双
寸法各縦156.8cm横356.0cm
所蔵東京国立博物館

この作品は安土桃山時代~江戸時代初期に活躍した画家・長谷川等伯によって描かれました。

深い霧の中にぼうっと現れる松林は幻想的でありながら何か物悲しさを感じます。

彼は一体どのような心境でこの作品を描いたのでしょうか。

『松林図屏風』を描いたときの心境

この作品、実は誰のものにもならず、等伯自身のために描いたとされています。

1592年、等伯が智積院(ちしゃくいん)の襖絵を完成させた翌年に、息子である久蔵が26歳で亡くなっていたのです。

その悲しみから描かれたのではないかと言われています。

智積院(ちしゃくいん):京都市東山区にある真言宗智山派総本山の寺院 

公式ホームページ:真言宗智山派 総本山智積院

智積院の襖絵のうち『楓図』

智積院の襖絵のなかにある『楓図』では等伯の学んだ狩野派の技法を上手く使いこなしています。

そんな彼の生涯はどのようなものでしょうか。作品と共に紹介していきます。

長谷川等伯の生涯と作品

出生

1539年、、能登国七尾(現在の石川県七尾市)に奥村文之丞宗道(能登国の戦国大名である畠山氏に仕える下級家臣)の子として生まれます。

つまり、武家の子だったと言えるでしょう。

幼少期の頃の名前は又四郎、そして帯刀と言いました。

長谷川家へ養子となる

その後、奥村文次という人を介して、長谷川直清と言う染物屋さんの養子となります。

長谷川家に跡取りがいなかったため、等伯は直清のところに養子になったのでしょう。

この長谷川直清は雪舟の弟子の等春という絵師に学んでいました。そこから長谷川等伯は絵の手ほどきを受けたと言われています。

青年期

等伯は10代後半から絵を習っていたと言われています。

養家である長谷川家は熱心な日蓮宗の信者だったので、等伯は法華関係の仏画や肖像画を描いていました。

例えば26歳の時に描いたとされる『日蓮上人坐像』、『十二天図』、『涅槃図』などほかにも10数点が確認されています。

『日蓮上人坐像』(大法寺蔵)

26歳にしてすでに絵の技量は確立しています。

『十二天図』引用元:七尾が生んだ桃山美術の画聖 長谷川等伯
『涅槃図』引用元:七尾が生んだ桃山美術の画聖 長谷川等伯

京都・堺を往復する日々

等伯33歳のころ、長谷川家の父と母が亡くなり、それを機に妻と息子を連れて京都に行くことにしました。

京都にある本法寺に暮らすこととなり、その翌年34歳の時に30歳で亡くなったお寺の住職の肖像画『日堯上人像』を描きました。

『日堯上人像』引用元:七尾が生んだ桃山美術の画聖 長谷川等伯

その後、狩野派の様式を学びながら、親交のあった千利休、日通からは昔の時代の中国絵画から大きな影響を受け、自らの画風を確立していきました。

この時の作品として『花鳥図屏風』、『伝名和長年像』などの作品を残しています。

『花鳥図屏風』引用元:七尾が生んだ桃山美術の画聖 長谷川等伯
『伝名和長年像』引用元:七尾が生んだ桃山美術の画聖 長谷川等伯

そして、千利休などを通じて大きな仕事も手掛けるようになります。

長谷川派の台頭

1589年、等伯51歳の時、千利休から大徳寺の周辺の柱や天井、壁に絵を描くことを依頼され、有名絵師としての名を挙げます。

その翌年、等伯は豊臣秀吉の家臣らには協力を仰ぎ、豊臣秀吉が増設した施設の壁画の注文を獲得しようとします。

しかし狩野永徳によってその注文は取り消されてしまいました。(施設の名前対屋から対屋事件と呼ばれています。)

『洛中洛外図の左隻』
『洛中洛外図の右隻』:狩野永徳の代表作。ビジュチューン!『洛中洛外シスターズ』の元出るになっています。

対屋事件をきっかけに狩野派が長谷川派の登場を意識し始め、警戒していることが見て取れる事件となりました。

それが的中するように一か月後、狩野永徳が死亡すると地積院の障壁画の制作を長谷川派が引き受けることになりました。

この障壁画は秀吉に気に入られ知行200石(資料によっても異なりますが、現代の価値で言うと900万円以上)が支払われました。

冒頭でも紹介した『楓図』:豊臣秀吉の嗜好が取り入れられているのではないでしょうか。

これにより、狩野派と並ぶ存在として長谷川派が台頭することとなります。

死別

しかし、その年に千利休が切腹、1,593年には息子の久蔵にも先立たれる不幸が相次ぎます。

その不幸を乗り越え、代表作である『松林ズ』のモデル『松林図屛風』を描きました。

『松林図屏風』

晩年

晩年になると記録として沢庵宗彭(たくあんそうほう)び著作『結縄録』に見られます。

ある人が「実際に虎を見たことがある○○(だれそれ)ほど上手に虎を描くものがいないだろう」と述べると

絵が下手では上手く描けないように、実際に見た見ないは絵の上手には関係ない

と反論したと言います。

沢庵によるとさほど賢い老人には見えないが、絵にすべてを尽くした発言であると感心しています。。

死去

1610年には徳川家康により次男・長谷川宗宅と共に江戸へと向かうが旅の途中で病気になってしまいました。なんとか江戸に到着するもその二日後に病死しました。享年は72歳でした。

彼がもし江戸で絵をかいたら日本の傑作を描いていたのかもしれませんね。

まとめ

びじゅチューン!『松林ズ』は『松林図屛風』をモデルにしています。

長谷川等伯は身内の死に対しての弔いや悲しみ、そして克服のためにこの作品を描いたのかもしれません。

最後までご覧いただきありがとうございました。

他にもびじゅチューン!に関する記事を記載しています。もしよろしければそちらもご覧ください。

また、付録としてこの記事の下に『松林ズ』の小ネタを紹介しています。そちらもご覧ください。

『松林ズ』の小ネタ

『松林ズ』にもびじゅチューン!の他の作品で出ているキャラクターが出ています。

客席のアップがあるときに探すことができます。

『松林ズ』の登場キャラクター

モナ・リザさん

『お局のモナ・リザさん』でとうじょうしたキャラクターです。画面ぎりぎりにいましたので、見逃すところでしたが確かにいました。

モナリザさんは結構他の動画にも出演しているので、出演している作品をピックアップした記事でも書こうかと思います。

コロッセオハットのおばあちゃん

『祖母のコロッセオハット』で登場しているおばあちゃんです。ずっと被っているので相当お気に入りなんですね。

兵馬俑ウエディングの兵士

『兵馬俑ウエディング』に登場した兵士が見ています。

彼らも結婚式で踊りをしているので、それを学びにきたように見えます。

姫路城と谷くん

『姫路城と初デート』の二人が登場しています。きっとデートでしょうね。

その他にも『特急三日月宗近』でもデートしているので、仲の良さがうかがえます。

右下のテロップを回している人

右下の歌詞付きのテロップを回している人は顔に思いっきり「等伯」と描かれています。

等伯はどのような顔立ちをしているのか不明なので顔は描かれていないのでしょう。また、キャップをかぶってテロップを回しているところから、フェスのスタッフをイメージしたのではないでしょうか。

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